そういえば哲学の終焉

「映画の終焉」を宣言したGodardのPIER

「近代の終焉」「国家政治の終焉」「ロックの終焉」「哲学の終焉」...いろいろなものを「終わった」と声高に宣言していた賢そうな論文やカッコよさげなパフォーマンスを見てきた記憶があるが、そんな「終焉」の宣言の後の世界をゆるく生きている僕は、ちょっと退屈な近代を、ちょっとほころびた国家の中で、ちょっとピントはずれの近頃のロックを聴きながら、それでもそれなりに過ごしているわけで...何が終わったのだろう、と思う今日この頃。

(とはいえ、半年前には「映画の終焉」を宣言したゴダールの「気狂いピエロ」のロケ地、ポルクロール島によせばいいのに感傷旅行してしまい、台風のようなミストラルで遭難しそうになったが。写真はそのときに撮ったもの)

ただし、「哲学の終焉」だけは、今の僕にとってリアリティがある。なぜなら、今から5年くらい前からパタッと哲学、倫理学、社会思想関係の本を読まなくなってしまったから。いわゆる「ニューアカデミズム」世代とか呼ばれた私の同年代でこの手の議論をしていた友人たちとも、お互い連絡もとりあわなくなった。

別に僕が哲学から離れたから世の中の哲学が終わった、というつもりはないのだが、それにつけても深夜にこの手の本を探すときのメッカだった青山ブックセンターはなくなり、本屋の哲学、思想関連のコーナーはパソコンや海外留学関連書籍のコーナーに置き換わり...ま、出版業界の収益源だったミーハー雑誌が売れなくなったことで、今まで見逃されてきた赤字部門のこのジャンルの本の供給が落ちているのもあるんだろうけど、やっぱり時代の気分もあると思うわけで...

仮説だが、もしかしたら哲学は、今日の諸問題解決のための「道具」という基準から考えた場合、スーパーコンピュータみたいになっているのかもしれない。スーパーコンピュータは確かにスペックは高いがほとんどの人が実際に使うことができず、かつ、数年経つとそのスペック並みの普及版のパソコンが数十万円で出てくる早いライフサイクルの中で価値が埋もれてしまう−こんな状況を目にすると、ちょっとばかり気が利いた人たちは、スーパーコンピュータの開発で一部のニッチな人々を驚かせるよりも、スーパーコンピュータ開発を通じて得られた技術をアレンジして、フツーの人たちが日々使えるパソコンの世界で世の中をちょっとだけ素敵にしよう、とか思うわけで。

しかしながら、その一方で、このパソコン的な知(たとえば経営学)が、哲学系の世界ではデジャヴュ感ありありのコンセプトのが同語反復で展開されているのを見ると、実はこっちも、スーパーコンピュータの世界ほど本質的な変化のライフサイクルは早くないのかな、とも思う。となると、スーパーコンピューターの方を期待したくもなるのだが....この私が退屈に感じる5年間ほど、哲学サイドでは新たなコンセプトが創造された形跡はどうやらなさそうで、せいぜい時代的な状況(例:ITバブルの崩壊、9.11、中国の台頭)に合わせてありものの編集におけるバランスが変わっているくらい。(ていうか、9.11問題をおどろおどろしく語っている思想家さんたちは、ならばなんで自分たちのコンセプトではそれを防げなかったかを考えるべきで...)

パソコン的な知の方は、スーパーコンピュータの開発から得られる次世代技術を待っているのだが、それがちっとも出てこない、といったところではないだろうか。

決め付け口調で申し訳ないが、この仮説を反証してくれる面白い研究、知っていたら教えてね。

ではまた。