そういえば「世界史の構造」

久しぶりに経営やマーケティングと関係のない、政治のことなど考えており、そこから、柄谷行人さんの「世界史の構造」のモデル (→id:gilles-nao:20110508) について考えたりしています。

このモデルについて、私以外の方々はどのようにとらえられていらっしゃるのか、ふと関心を持ち、ウェブを検索してみました。
以下、検索して興味深かったものを、順不同でリンクと主要な部分の引用を残しておきます。


http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100817/1281979748
"自分の頭で考えた人はソクラテスだけではない。いつの時代にも、どこの国にも、そういう人は、多くはないが、必ずいるといっていい。そういう人が、歴史に残るような作品を創造するのであって、作品とは考えさせられて人間の記録というよりは、自分の頭で考えた人間の記録といっていい。ところで、現代日本でそういう人物を捜すとすれば、どういう人が思い浮かぶだろうか。私が、最初に思い浮かべるのは、文芸評論家にして、思想家ともいうべき活躍をしている柄谷行人であるが、柄谷行人の新作『世界史の構造』(岩波書店)を読んで、あらためてそう思わないわけにはいかなかった"


http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20100822/1282456950
"互酬について、贈与の力により高次の共同体につながり得る可能性をもつものとみる柄谷の見方は、容易には納得し得るものではない。互酬が形成されるような場では、それぞれの構成員の間にある種のメンバーシップがあることが要請されるであろう"


http://www.yamaguchijiro.com/?eid=871#trackback
"政治の変革を念じて議論を重ねてきたものの、政権交代以後の混迷に辟易していた評者にとって、この時期に本書を読むことができたのは大変な幸運であった。資本=国家=ネーションの頑強さは危機においてこそ現れる"


http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201008240093.html
"本の帯に「世界同時革命へ!」とうたう挑発的な書だが、しかしそれは、労働者の蜂起といった形では起きない。国連の発展形としての諸国家連邦→世界共和国の道を通ると著者は予見する。早のみこみの読者は、資本=国家の揚棄の解決策が国連、という結論に、やや拍子抜けするかもしれない"


http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
"カントの「統整的」という概念は柄谷の議論の重要なキーコンセプトである。柄谷はそれを、「超越論的仮象」が緩やかな目的として設定されることとして定義する。だがカントの「統整的」は、同時に内側から見ると「自分が外部の超越性に頼らず自分自身で自分に命令すること」でもある。そのとき命令する自分の普遍性の根拠になるのは、絶対的な超越性に代わつて登場するより緩やかな規範性である。それはカントによって具体的には「趣味判断」の共通性の根底をなす「共通感覚」として提示される。それは、歴史的にいえば市民社会内部の、国家にも資本にも還元出来ない中問領域としての非制度的コンセンサスを意味する。このコンセンサスはスタティックなものではない。対立をいとわない自由で開かれた言論を通して形成される、アレントハーバーマスなら「公共性」と呼ぶところのものでもあるからだ。問題は、内部から見たこのような力ントの「統整的」が、ヘーゲルのいう「理性の校知」を超えられるかというところにある"


http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub9/sub9-55.htm
"道徳は日常のさまざまなしがらみ(諸規定)を排除した自律(自発)によっていなければならない。いかなる世俗の規定にも縛られてはならない。自律する道徳法則に従うことこそ、不自由ではなく自由意志である。
 その性質上、道徳性は、柄谷さんが超越論的仮象であることをいくら強調しても、純粋化へ向かう。つまり媒介性を削ぎ落としてゆくゆえに、絶対化か無力化のいずれかに陥る。それが道徳性の宿命だ”