「ネーション」

英語の”nation”には、三つの意味がある。

  1. the people who live in a nation or country(その国に住んでいる人々)
  2. a politically organized body of people, under a single government(単一の政府の下において政治的に組織化された人々の集まり)
  3. a federation of tribes(部族の連合体)

柄谷自身は、「ネーション」を「部族的な社会」に特徴的な「互酬的交換様式が支配的な社会構成体」と説明している。

「交換様式A(互酬)を例にとろう。部族的な社会では、これが支配的な交換様式である。ここでは、富や権力を独占することができない。」〔柄谷 (2010) 13p〕

ここに出てくる「交換様式A(互酬)」について、柄谷は次のように説明している。

「数世帯からなる狩猟採集民のバンドでは、獲物はすべて共同寄託され平等に配分される。しかし、このような共同寄託=再配分は、世帯ないし数世帯からなるバンドの内部にのみ存する原理である。それに対して、互酬は、世帯やバンドがその外の世帯やバンドとの間に恒常的に友好的な関係を形成するときにおこなわれるものだ。すなわち、互酬を通して、世帯を超えた上位の集団が形成されるのである。」〔柄谷 (2010) 10p-11p〕

したがって、先ほどの”nation”の三つの意味の中では、「a federation of tribes(部族の連合体)」が最も近そうである。それを表す一語を選ぶとするならば、「民族」といったところであろうか。ただし、「民族」として私たちが思い浮かべるイメージ、たとえば、同じ起源を持ち、同じ場所に住み、同じ言葉を話すといったことが、実は、「想像的な回復」によって創られたものである、と柄谷は考えている。

「ネーションとは、社会構成体の中で、資本=国家の支配の下で解体されつつあった共同体あるいは交換様式A(互酬)を、想像的に回復するかたちであらわれたものである。... ネーションの感性的な基盤は、血縁的・地縁的・言語的共同体である。」〔柄谷(2010)312p〕

最近の事象で「ネーション」が現われているものとして、「3.11」震災の直後に私たちの心にどこからともなくあらわれてきた「自粛ムード」が挙げられよう。海外では「死者を悼む気持ち」と説明されていたそうだが、それだけでは説明しきれない「何か」がある。それは、もしかしたら、「被災地の方々」というバンドと「自分たち」というバンドの間の「互酬」の変形(前者から後者に「被災という体験」を「与えられた」ときに、後者が前者に対して「自粛という体験」という「お返しをする」ことによって、共同体の「掟」を再確認している)と言えるかもしれない。
あるいは、最近話題の「9.11」の容疑者の殺害に対する米国内の熱狂も、「外部からの脅威」をきっかけに出自の異なる米国民が同じ「言語的共同体」のもとに結束することを再確認する儀式なのかもしれない。容疑者の捕獲作戦のコードネームが、米国の「言語的共同体」の中核的なストーリーである「インディアンとの戦い」を象徴する固有名詞「ジェロニモ」だったのは、おそらく偶然ではない。そして、米国民が自らの「ネーション」の感性的な基盤として育んできた「言語的共同体」において「正統」と感じられることは、そこに属さない人々(たとえば私たち日本人)にとっては、必ずしも同じようには感じられない。