「資本」

「資本」について、柄谷は次のように説明している。

「交換様式C(商品交換)が支配的となるのが、資本制社会である。」〔柄谷 (2010) 13p〕

「第三の交換様式C、すなわち商品交換は相互の合意に基づくものである。それは交換様式AやB、つまり、贈与によって拘束したり、暴力によって強奪したりすることがないときに、成立するのである。つまり、商品交換は、互いに他を自由な存在として承認するときにのみ成立する。ゆえに、商品交換が発達するとき、それは、各個人を贈与原理にもとづく一次的な共同体の拘束から独立させるようになる。都市は、そのような個人が自発的に作ったアソシエーションによって形成される。」〔柄谷 (2010) 11p〕

柄谷は「資本」に対して、それまでの共同体や国家において「拘束」されてきた人々を「解放」するという意味において、一定の意義を認める。

「たとえば農民はたんに農業で生活できなくなったから賃労働者になるのではない。むしろ、多くの場合、共同体の拘束から自由になるためである。ギルドの職人に関しても同じである。今日では、それまで家庭にいた女性が賃労働者になろうとする。それはたんに夫の収入だけでは生活できないからではなく、男性や家族の拘束から自由になるためでもある。「労働力」の商品化は...個々人を自由にする。つまり、交換様式A(互酬)や交換様式B(略奪と再配分)による拘束から解放する。 他方で、労働力商品の所有者としての個々人は、新たな拘束や服従を強いられる。いつ解雇されるかもしれない恐怖にさらされるし、事実解雇される。それでも、人々は共同体や家族に従属するよりも、労働力を売って生きるほうを好むのである。」〔柄谷 (2010) 280p-281p〕

さらに、この「資本」が「一つの閉じられた価値体系」にとどまらずに「外部」に拡大することによって、さらに力を持ってくる。

「分業と協業によって今までより10倍多く生産したビンを誰が買うのか。安くなったからといって、労働者がそれを10倍も買うことはありえない。ゆえに、資本が剰余価値を実現するためには、それを買う消費者を「外部」に見出さねばならない。それは外国の市場か、ないしは、これまでいた自給自足的な共同体の中から新たに労働者=消費者として参加する者...一つの閉じられた価値体系の中では、いかに生産性を上げても、剰余価値がありえず、したがって、資本の増殖がありえないということである。」〔柄谷 (2010) 286p-287p〕