「資本=ネーション=国家」の問題点

これまでに見てきた「互酬」「略奪と再配分」「商品交換」という性格の異なる三つの交換様式およびそれらを動かす「ネーション」「国家」「資本」の三つのメカニズムは、相互に連携しているため、それらのいずれか一つの立場から、他の交換様式やメカニズムを批判しても意味がない。
たとえば「国家」を否定し、ノスタルジックに「共同体」を取り戻そうとしても、それは、私たちがかつての共同体における「掟」に再び拘束されることを意味するならば、私たちは本当にそれを望むだろうか。
あるいは、「国家」を否定しても、それが不毛な「アナーキズム」に陥ることを意味するならば、私たちは本当にそれを望むだろうか。
そして、「資本」がもたらしたダイナミックな発展は明らかである。柄谷からは外れるが、産業資本主義の発達した国家の平均寿命と平均所得が劇的に伸びていることを示すデータとしては、Hans Roslingのものが知られる。
http://www.youtube.com/watch?v=jbkSRLYSojo&feature=youtu.be
「商品交換」を否定し、それ以前の「互酬」や「再配分」といった交換様式に戻すことが、この発展を逆戻させることを意味するならば、私たちは本当にそれを望むだろうか。
とはいえ、「資本」における功利主義的なメカニズムに優先権を与えることで、国家内あるいは国家間の経済的格差を増加させ、経済的な弱者が「行き過ぎた『労働力』の商品化」(例: 命にかかわるリスクが高い仕事への従事)を選ばざるを得ない状況に追い込むとするならば、それは果たして正しいことなのだろうか。
となると、合理的に運営された「国家」のメカニズムの上に、「資本」のメカニズムの強みを生かしながら、その弱みを「ネーション」の原理によって補うという「三位一体のシステム」は、問題がないとは言えないが、今日私たちが知るシステムの代替案の中では、そう悪くない選択肢といえるのではないだろうか。
しかしながら、 情報化が進み、教育水準が上がることによって、事実に基づいて自ら合理的に判断をする能力が高まった私たちにとっては、「三位一体のシステム」の中の「ネーション」の交換様式の部分、あるいは、それを動かす「血縁的・地縁的・言語的共同体」のメカニズムの部分は、それがまさに「感性的な基盤」に頼っているがゆえに、人々の感性の変化にともなって、かつてのようにリアリティを持たせることが難しくなり、それゆえ、共感を得ることが難しくなっているのではないだろうか。たとえば「世間体」「精神」「美徳」「国家の品格」といった「感性的な基盤」を声高に叫んだとしても、合理的な判断に基づいて動く「国家」や「資本」に対して、かつてのような批判力を持たせることは難しくなっているのではないだろうか。