「目的の国」

「私の考えでは...宗教を批判しつつ、なお且つ宗教の倫理的核心すなわち交換様式Dを救出する課題を追求した思想家がいる。カントである。彼は、『他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え』という格率を普遍的な道徳法則であると考えた。それが実現された状態が『目的の国』である。...
他者を『目的として扱う』とは、他者を自由な存在として扱うということであり、それは他者の尊厳、すなわち、代替しえない単独性を認めることである。自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。それこそ交換様式Dである。」〔柄谷 (2010) 345p〕

この「目的の国」の考え方に従うと、たとえば、先に述べた「資本」における功利主義的なメカニズムに優先権を与えることで、国家内あるいは国家間の経済的格差を増加させ、経済的な弱者が「行き過ぎた『労働力』の商品化」(例: 命にかかわるリスクが高い仕事への従事)を選ばざるを得ない状況に追い込むという問題に対して、明快に「それは普遍的な道徳法則に反している」と判断されることになる。
その一方で、柄谷は、「国家」「資本」の弊害を解消しているモデルとしてしばしば挙げられるロールズの「福祉国家主義」に一定の評価を与えながらも、このカントの「目的の国」とは似て非なるものとして批判する。

福祉国家主義は、先進資本主義国で、ソ連社会主義に対抗するために”消極的”に採用されてきた。その中で、それを積極的に根拠づけようとした理論家として注目に値するのは、ジョン・ロールズである。それは、彼が、経済的な「格差」に反対して富の再分配を、アプリオリに道徳的な『正義』という観点から基礎づけようとしたからである。...
ロールズは、このように『正義』から始める方法をカント的であると考えた。ある意味では、その通りである。しかし、実際にはまるで違っている。カントが考える正義が『交換的正義』であるのに対して、ロールズがいう正義は『分配的正義』である。それは、資本主義的経済がもたらす格差を、国家による再配分によって解消するというものである。それは不平等を生み出すメカニズムには手を出さないで、その結果を国家によって是正しようというものだ。」〔柄谷 (2010) 398p〕

となると、「福祉国家主義」に替わるアプローチとしてどのようなものがあるだろうか。その件に関する柄谷の記述は、それまでの緻密な論理的な文体から、いささか演説的な文体に変化していくのだが...まず国家内における問題解決のアプローチとして、柄谷は「消費者としての選択」を提唱する。