「消費者としての選択」

「労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。流通過程においては、逆に、資本は消費者としての労働者に対して『隷属関係』におかれる。とすれば、労働者が資本に対抗するとき、それが困難であるような場ではなく、資本に対して労働者が優位にあるような場でおこなえばよい。...たとえば、環境問題に関して、消費者・住民の方が敏感であり、すぐに世界市民的な観点に立つことができる。つまり、労働者階級は...普遍的な『階級意識』をもつことが容易である。」〔柄谷 (2010) 438p-439p〕

すなわち、自らの「労働力」を商品化することで、交換様式A(互酬)や交換様式B(略奪と再配分)による拘束から解放され自由を得たが、その一方で労働力商品の所有者として新たに拘束もされている「労働者」が、労働の賃金を通じて得た「消費者」の立場から「資本」がもたらす課題を是正していくというモデルである。
たとえば「消費者」が、仮に先ほどのカントの「目的の国」のような倫理観を持つことができるならば、国家内における経済的格差およびそれがもたらす諸問題を解決するために、ロールズのように「再分配(再配分)」に頼らなくても、「商品交換」において解決できる可能性が出てくるであろう。
さらに、仮に「消費者」として自らの倫理観に合致した選択肢がなかったとするならば、流通過程において「消費者」自身が新たな選択肢をつくることも考えられる。

「労働者階級が自由な主体として資本に対抗して活動できる場はやはり流通過程にある。それによって、資本が利潤追求のために犯すさまざまな行き過ぎを普遍的な観点から批判し是正することができる。のみならず、それによって、非資本性的な経済を自ら創り出すことができる。具体的にいえば、消費者=生産者協同組合や地域通貨・信用システムなどの形成である。」〔柄谷 (2010) 440p〕

それでは、国家間の経済的格差およびそれがもたらす諸問題を解決するためにはどのようなアプローチがありうるのか。柄谷は「世界共和国」を提唱する。