そういえば辰野登恵子さんと藤枝晃雄さん

WORK84-P1 (http://www.tatsunotoeko.c

昨日国立新美術館に「『具体』−ニッポンの前衛 18年の軌跡」をミーハーなモードで観に行ったら、同じタイミングで辰野登恵子さんの展覧会をやっていることに気づく。

辰野登恵子さんかぁ...私が大学の1年生から2年生にかけて、現代美術に興味を持っていたころ、辰野登恵子さんは現代美術の世界で圧倒的なスターだったことを記憶している。私の関心は以後哲学に移ったので、現代美術にはすっかり疎くなっていたが、辰野登恵子さんの名前に招かれるまま、「具体」の方を早めに切り上げて、閉館間近の時間に「与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄」に駆け込む。

そして、あの頃現代美術を観ていたときの文脈が蘇ってくる。
そんなわけで、今朝Amazonで注文し、さっき届いた藤枝晃雄さんの「現代芸術の彼岸 (MAUライブラリー)」をめくっている。

「ステラやジャッドにおいては一つのストライプや一箇の物体ー後者にはそのような作品も存在するが重要ではないーに意味があるのではなく、反復されているもののすべてに意味がある。それは求心性、中心性を持たないために用いられているのであって、とくにジャッドの場合は三次元的、現実的な空間を占有しているために、それが明確になっている。物体の大きさ、配列の仕方、その設置される場所が反復と密接に関連し合っている。
 非求心性、非中心性は、前述した空間の崩壊の謂でもあり、ポロックからルイスにいたって決定的になったものである。だが、そこには積極的な表現の意図とそれを超えた積極的な意味が与えられている。そして、空間の崩壊がポップ・アート、その源泉たるジョーンズの概念的な作品を通して自覚されたとき、ステラやジャッドがそれをポップ・アートよりもはるかに明確な芸術として、すなわち空間表象として示したのである。それゆえ彼らの作品には、たとえ消極的であれ、線、形状、色彩に鋭敏な感覚が内包されている」(115p-116p)

「どんなに歪曲されていようとも、またいかに超現実的なものであろうとも、現実と照応可能な何らかの具体的な形があると意味をなし、抽象的な形があると意味を持たないという程度の議論がいまだになされています。意図の、観念の、概念の視覚的イラストレーションといういつもながらの似而非知的なセンチメンタルな見方が現われるのですが、意味などが、最初から確定している表現になると、表現への価値判断などできるわけはないのだから受容者は制作者の哀れなスポークスマンとなり、それによって表現の領域に参入したかのような錯覚を抱いて恍惚とする。センチメンタルだと言う所以です。そして、このセンチメンタリティを隠蔽するために、ドゥルーズだのベンヤミンだの流行の思想の用語と用語の接木によるモンタージュが作り上げられるのです」(173p)

そう、この問題意識に対して、辰野登恵子さんはまっすぐに向き合い続けてきたことを再発見した展覧会だった。
素晴らしいことだ。

参考: 辰野登恵子さんのウェブサイト: http://www.tatsunotoeko.com/

そういえば光学系

gilles-nao2012-09-01


父が使っていたカメラを借りて今朝早朝に満月を撮影しました。

実は一眼レフカメラを手に取ったのもこのカメラが初めてで、マニュアルモードで撮影したのも、子供の頃に父からアナログのカメラを借りて撮影して以来数十年ぶりという光学系初心者でしたが、せっかくのブルームーンでしたので、慌てて勉強して撮影してみました。

こうやって撮ってみると、月って意外と凸凹しているんですね。
光学系、面白い世界です。

そういえば「世界史の構造」

久しぶりに経営やマーケティングと関係のない、政治のことなど考えており、そこから、柄谷行人さんの「世界史の構造」のモデル (→id:gilles-nao:20110508) について考えたりしています。

このモデルについて、私以外の方々はどのようにとらえられていらっしゃるのか、ふと関心を持ち、ウェブを検索してみました。
以下、検索して興味深かったものを、順不同でリンクと主要な部分の引用を残しておきます。


http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100817/1281979748
"自分の頭で考えた人はソクラテスだけではない。いつの時代にも、どこの国にも、そういう人は、多くはないが、必ずいるといっていい。そういう人が、歴史に残るような作品を創造するのであって、作品とは考えさせられて人間の記録というよりは、自分の頭で考えた人間の記録といっていい。ところで、現代日本でそういう人物を捜すとすれば、どういう人が思い浮かぶだろうか。私が、最初に思い浮かべるのは、文芸評論家にして、思想家ともいうべき活躍をしている柄谷行人であるが、柄谷行人の新作『世界史の構造』(岩波書店)を読んで、あらためてそう思わないわけにはいかなかった"


http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20100822/1282456950
"互酬について、贈与の力により高次の共同体につながり得る可能性をもつものとみる柄谷の見方は、容易には納得し得るものではない。互酬が形成されるような場では、それぞれの構成員の間にある種のメンバーシップがあることが要請されるであろう"


http://www.yamaguchijiro.com/?eid=871#trackback
"政治の変革を念じて議論を重ねてきたものの、政権交代以後の混迷に辟易していた評者にとって、この時期に本書を読むことができたのは大変な幸運であった。資本=国家=ネーションの頑強さは危機においてこそ現れる"


http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201008240093.html
"本の帯に「世界同時革命へ!」とうたう挑発的な書だが、しかしそれは、労働者の蜂起といった形では起きない。国連の発展形としての諸国家連邦→世界共和国の道を通ると著者は予見する。早のみこみの読者は、資本=国家の揚棄の解決策が国連、という結論に、やや拍子抜けするかもしれない"


http://prof-takahashi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
"カントの「統整的」という概念は柄谷の議論の重要なキーコンセプトである。柄谷はそれを、「超越論的仮象」が緩やかな目的として設定されることとして定義する。だがカントの「統整的」は、同時に内側から見ると「自分が外部の超越性に頼らず自分自身で自分に命令すること」でもある。そのとき命令する自分の普遍性の根拠になるのは、絶対的な超越性に代わつて登場するより緩やかな規範性である。それはカントによって具体的には「趣味判断」の共通性の根底をなす「共通感覚」として提示される。それは、歴史的にいえば市民社会内部の、国家にも資本にも還元出来ない中問領域としての非制度的コンセンサスを意味する。このコンセンサスはスタティックなものではない。対立をいとわない自由で開かれた言論を通して形成される、アレントハーバーマスなら「公共性」と呼ぶところのものでもあるからだ。問題は、内部から見たこのような力ントの「統整的」が、ヘーゲルのいう「理性の校知」を超えられるかというところにある"


http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub9/sub9-55.htm
"道徳は日常のさまざまなしがらみ(諸規定)を排除した自律(自発)によっていなければならない。いかなる世俗の規定にも縛られてはならない。自律する道徳法則に従うことこそ、不自由ではなく自由意志である。
 その性質上、道徳性は、柄谷さんが超越論的仮象であることをいくら強調しても、純粋化へ向かう。つまり媒介性を削ぎ落としてゆくゆえに、絶対化か無力化のいずれかに陥る。それが道徳性の宿命だ”

そういえば採点 2012年夏

前回の採点から半年が経ちました。
近況報告的な書き込みをfacebookに移してから、こちらのブログはすっかり更新しなくなってしまいましたね。

さて、恒例の採点結果の分析ですが、大学の方針で、出席点を成績において考慮しなくなりましたので、正確な出席回数が把握できなくなりました。

今回からは、授業における発言や課題発表の総回数(以後「クラス貢献回数」)で2割、中間レポートの提出で2割、期末試験の結果で6割にて評価をしました。

グラフのX軸はクラス貢献回数、Y軸は最終評価、レポート提出者は青(Y)、レポート未提出者は赤(Y)です。

日頃からの授業への積極的な参加をいただき、きちんとレポートを出していただければ、ほぼよい成績が取れる授業となりました。

そういえば採点 2012年冬

2011年度後期の採点作業、無事終了しました。

前回(→id:gilles-nao:20110205)と同じ分析をしてみたところ、棄権者を除くと、R2=0.6415。「出席回数(0-14)」と「成績(0-100)」の間には相関があります。

ただし、この「成績」は「試験の点数」を6割、「出席回数」を4割で計算しているので、この結果は当たり前といえば当たり前。

それを除いた「試験だけの点数」は、思ったほど相関がなかったです。

来年度からは大学の方針から、「出席回数」を入れない「成績」となりますので、受講される方は、出席しているだけでは単位が取れない、思考力の育成がますます求められる授業になります。