そういえばAdelscott

gilles-nao2011-10-29


日進ワールドデリカテッセンの3Fで買物をしていたら、顔なじみの店員さんが私に気がついて、申し訳なさそうに、
「実は、Adelscottが終売になってしまったんですよ」
と教えてくれた。
インポーターさんが取り扱わなくなったとのことだが、そのインポーターさんもかなりビール通なところとのことなので、もしかしたら生産側の問題かもしれない、とのこと。

Adelscottと最初に出会ったのは大学時代、J-L.GodardやAndrei Tarkovsky、Daniel Schmidtを上映していたCine Vivantで映画を観た帰りに、WAVEの中に「雨の木 (Rain Tree)」というカフェのメニューにあったのがこのビールだった。
ビールなのに、ウィスキーの香りがして、ほんのり甘くて...

そのAdelscottに、数年前日進ワールドデリカテッセンで再会してから、すっかり我が家の週末のベランダで楽しむビールの定番になっていた。
欠品になる時期が何回かあったのだが、しばらく待つと復活していたので、数ヶ月前に欠品になったときにも、また戻るだろうと思っていたのだが...寂しい限り。
検索で調べてみると、生産者のLa Brasserie Fischerが1996年にHeinekenに買われたのだが、”le groupe Heineken annonce la fermeture programmée de la brasserie courant 2009”とのことで、となると、もう生産をしていないのだろうか。

さっき、ベランダで我が家の最後の在庫をいただく。
復活してくれないかなぁ。

そういえばSteve

2011.10.8 17:34 @ Apple Store Ginza


今日の授業の最初で、はなはだ僭越ながら、Steveの話をした。

「この中でスティーブ・ジョブスの名前を聞いたことがある人、手をあげてください...あ、これくらいですね。その中で、スティーブ・ジョブスがどんな人かご存知の方、手を上げてください...ありがとうございます。
 今日の授業に入る前に、みなさんのお時間をいただいて、前期の授業で広告を観ていただいたアップル社の創業者の一人であり、最近までアップル社を率いていたスティーブ・ジョブスの話をさせてください。
 スティーブ・ジョブスは、今週の水曜日に、56歳で亡くなりました。普通の人の何倍もの、とても濃い人生だったので、私は「若くして亡くなった」とは感じないのですが、とはいえ、この先、もっとステーブがやることを見たかったという意味では、「早すぎる死」と言えるでしょう。

スティーブ・ジョブスの人生は波乱に満ちたものでした。
彼は、決して一流ではない、お金持ちのお坊ちゃんが通う私立大学に入学し、養子だったのですが彼の養父母が苦労して学費を出してくれていることが負担になりその大学を退学し、今で言うフリーターをやりながら、自分の興味がある授業に潜り込むという生活をしていました。その中で彼が出会ったのが「カリグラフィ」でした。
(ここでPagesで講義をしている大学名の略称をヒラギノ明朝Pro144ポイントで表示して)大学の名前を伝えるためだけならば、文字が判別できればいい。けれども、(フォントをいくつか変えて)文字のフォントによって、文字が、意味を伝える外の機能ー美的な感覚を刺激する力を持つ...これが「カリグラフィ」の世界です。
その後、スティーブ・ジョブスは、仲間とパーソナル・コンピュータの会社を創ります。世界中のハイテクのオタクが集まるシリコンバレーで、ガレージの一角で創ったような小さな会社で、自分たちが趣味の延長で組み立てたパソコンを売っている...そんな会社でしたが、それが後の、世界のパソコン業界、家電業界、そして携帯電話業界をリードすることになったアップル社となるわけです。
そのアップル社が世の中に注目されるきっかけとなった商品が、マッキントッシュでした。マッキントッシュ発売時の広告、前期にも見ていただきましたが、ご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=HhsWzJo2sN4

この、パソコンの販売促進を目的としたものにしてはいささか大仰な内容の広告ですが 、この中に、ジョブスがその後ずっと追い求めてきたことが、明快に語られています。
"Let's show why 1984 won't be like 1984."というヴィジョン...ジョージ・オーウェルというSF作家が描いた「管理が進み、人々の個性が奪われた社会」ではなく、「個性的な表現が多様な表現をし、多様な価値を生み出す社会」を、ジョブスはずっと追い求めてきたのです。
コンピュータには、ともすれば、個々の人々の個性、多様な表現、多様な価値をすべて均質な「数字」に置き換えて取引できる商品にしてしまうこの社会の、「数字」を計算する機械という側面があります。
しかしながら、その一方で、それを使うことで、個々の人々が、均質な「数字」の取引の世界の中で「管理される人」になることから飛び出して、美しいものを享受したり、表現をしたり、価値を生み出したりすることができるようになる「個々の人々に力を与える機械」としてのコンピュータ...これが、おそらくジョブスが思い描いていたヴィジョンでしょう。
だからこそ、マッキントッシュは、ジョブスがかつて学んだ「カリグラフィ」の世界...文字が、無機質に情報を伝えるだけでなく、多様な表現をする、「タイポグラフィ」の機能を持ったわけです。
アップル社のパソコン事業から、携帯音楽プレイヤー事業、そして携帯電話事業へのシフトについて、世の中は意外な展開として驚いてきましたが、ジョブスにとっては、この「個々の人々に力を与える機械」というヴィジョンにおいて、実は、一貫していたのではないでしょうか。

そんなジョブスも、あまりの完璧主義で、だんだん同僚から嫌われるようになります。「空気を読まない人」というやつですね。スケジュールの締切が近づき、「そろそろ、このあたりにしておこうよ」というタイミングになっても、「こんなものじゃだめだ」と言って、ひたすら「あるべき姿」を追求している...そんな仕事ぶりから、最後には、自らが創業者の一人であったアップル社を追われてしまいます。しかしながら、その後、別のコンピュータの会社やCGの会社の経営者を経て、ジョブスはアップルに再び招かれます。
 その頃のアップル社の広告が、やはり前期にも見ていただきましたが、"Think Different"です。

http://www.youtube.com/watch?v=nytz2zfJL3I

この、やはり、パソコンの販売促進を目的としたものとはとても思えない広告...これが、スティーブがアップル社でやろうとしたこと、アップル社の製品を通じてもたらそうとした世界です。まったりとした人々が、型にはまって、空気を読んで、そこそこの仕事をこなして過ごす人々の社会ではなく、個性的な人々が、常識にとらわれず、摩擦を恐れず、突き抜けた仕事をする...そのことで、その仕事のお客さんたちが驚き、わくわくし、そして幸せになる...そんな社会を創ろうとしていたのでしょう。そして、そんな社会の実現を促すための製品を創ろうとしていたのでしょう。
 そんな製品の成功例の一つが、みなさんおなじみのiPodです。

http://www.youtube.com/watch?v=nljs4kzpebU

かつてのイギリスのチャーチル首相が「最低のシステムだが、これまで実験されたシステムの中では最もましなもの」と評した資本主義をベースとした今日の社会システム...このシステムは、不完全で課題だらけであることは、今日の数多くの社会問題に現われている通りです。
しかしながら、その一方で、今日の社会システムの中だからこそ、ジョブスのような、強いヴィジョンがあり、それを実現させるための強い意志と才能がある人が、規制に縛られず、資金を調達し、世界各国に自社製品の販売網を広げることで、ここまで大きなことを成し遂げられたのだと思います。

スティーブ・ジョブススタンフォード大学の卒業式の時のスピーチ、これは、ネット上で「スティーブ・ジョブス」と「スタンフォード大学」の検索を入れれば動画が見られるかと存じます...と、スティーブ・ジョブスの伝記的な本を、機会があれば見てみて、読んでみてください。
私たちの社会の中で、私たちの社会をよりよくするために、私たちができることはたくさんあり、そのヒントが、ステーブ・ジョブスの生き方にあると思います。

長くなりました。それでは、本日の授業に入ります。」

何の準備もしていなかったのだが、当初は、Appleの広告を見てもらって最近のニュースをremindするくらいのつもりだったが、気がついたら上記のようなことを話していた。

これまであまり自覚していなかったが、Steveは、実は、私にとって大きな存在だったようだ。

そういえば日本経済

この週末は久しぶりに土日とも予定がなく、久しぶりにゆっくりしようと思ってはいたのだが...私がそう思わないでも、身体が勝手にそういうモードに入ったようで、土曜日の朝から体がだるく、くしゃみが続き、そのまま一日寝込んだ。

今日は多少は生産的な活動をと思い、近所のStarbucksで朝から読書モードに入ったが、体のだるさとくしゃみがだんだん悪化し、お昼頃に一冊読み終えたところでリタイアし、自宅でごろごろしていた。

そんな中読んだのが、facebookである方がお勧めしていたのに興味を持った「日本経済が何をやってもダメな本当の理由」という本だった。

この本のGDPの読み方が面白かったので、少しデータを見て著者の主張を確認してみた。
著者の主張は、ざっくりとまとめると、日本経済は、需要が生産よりも小さいのにもかかわらず、経済成長のための施策が生産設備への投資を過剰にし、その結果、収益性が悪化し、その皺寄せが個人の所得に来て、さらに需要が冷え込む、という悪循環のメカニズムに陥っているというもの。さて、本当なのだろうか。

まず、1980年から2009年までの名目GDP(支出側)の中の総固定資本形成(いわゆる投資額)の金額と割合の推移を見た。


総固定資本形成の金額は1991年までは確かに伸びていたが、それ以後は実は伸びておらず、1998年からはむしろ抑えられている。割合で見ても、1980年代から少しずつだが抑えられているといえよう。そういう意味では、無謀な投資の拡大があったというほどではなさそうである。

次に、1980年から2009年までの名目GDP(生産側)の中の固定資本減耗(いわゆる減価償却費)の金額と割合の推移を見た。


おお、こちらを見ると、確かに著者の主張がはっきりする。
固定資本減耗が金額、割合とも増える一方の、実にいやな推移である。
企業で言えば、減価償却費が上がるが売上が伴わず、その結果が営業利益率が下がってしまい、そのつじつまを人件費の抑制で取ろうとするが思うようにいかない典型的なパターン...

確かに、少なくとも1990年以後の日本においては、残念ながら投資は有効に機能していないようだ。

そういえば採点 2011年夏

2011-F-Exam

同居人のお祝いと翻訳の監訳のチェックと重なった今年の夏の採点ウィークエンド。しかも、早く帰ろうと思った金曜日夜も、予定外の同僚との会食でよい議論が盛り上がったおかげで朝帰り...
それでも、無事すべて終わりましたよ。忙しかったですが充実した週末でした。

前回(→id:gilles-nao:20110205)と同じ分析をしてみたところ、約7%の棄権者を除くと、R2=0.6667。やはり、出席回数と成績の間には相関があります。
ただし、今回は、出席2回で単位を取った強者の方もいらっしゃいました。かなり勉強されたんでしょうね。それはそれで感心です。

「世界共和国」

「ここでわわわれにヒントを与えるのは、国家以前の、部族連合体の例である。部族連合体はその頂点に王あるいは超越的な首長をもたない。先に私はこれを『国家に抗する社会』として見た。だが、今これを、諸国家がその上位に主権者をもつことなく、戦争状態を克服するにはどうすればよいのかを考えるヒントとして見たい。部族連合体を支えているのは、交換様式A、すなわち、互酬原理である。いいかえれば、軍事力や経済力ではなく、贈与の『力』である。それがまた、諸部族の実質的平等・相互的独立を保証している。...
われわれは先に、互酬的な原理の高次元での回復を消費=生産協同組合に見てきた。今や、それを諸国家の間の関係において見るべきである。諸国家連邦を新たな世界システムとして形成する原理は、贈与の互酬性である。これはこれまでの『海外援助』とは似て非なるものだ。たとえば、このとき贈与されるのは、生産物よりもむしろ、生産のための技術知識(知的所有)である。さらに、相手を威嚇してきた兵器の自発的放棄も、贈与に数えられる。このような贈与は、先進国における資本と国家の基盤を放棄するものである。
だが、それによって無秩序が生じることはない。贈与は軍事力や経済力よりも強い『力』として働くからだ。普遍的な『法の支配』は、暴力ではなく、贈与の力によって支えられる。『世界共和国』はこのようにして形成される。」〔柄谷 (2010) 461p-462p〕

いささか演説的な文体とともに語られるこの提唱は、「非現実的な夢想」として響くかもしれない。しかし、柄谷は、この可能性に希望を持っている。

「互酬原理にもとづく世界システム、すなわち、世界共和国の実現は容易ではない。交換様式A・B・Cは執拗に存続する。いいかえれば、共同体(ネーション)、国家、資本は執拗に存続する。いかに生産力(人間と自然の関係)が発展しても、人間と人間の関係である交換様式に由来するそのような存在を、完全に解消することはできない。だが、それらが存在するかぎりにおいて、交換様式Dもまた執拗に存続する。それはいかに否定し抑圧しても、否応なく回帰することをやめない。カントがいう『統制的理念』とはそのようなものである。」〔柄谷 (2010) 461p-462p〕

今日的な諸問題をより強く意識する場面が多い今日この頃ですが、私自身も柄谷と同じ希望を持ちたいと思っています。

「消費者としての選択」

「労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。流通過程においては、逆に、資本は消費者としての労働者に対して『隷属関係』におかれる。とすれば、労働者が資本に対抗するとき、それが困難であるような場ではなく、資本に対して労働者が優位にあるような場でおこなえばよい。...たとえば、環境問題に関して、消費者・住民の方が敏感であり、すぐに世界市民的な観点に立つことができる。つまり、労働者階級は...普遍的な『階級意識』をもつことが容易である。」〔柄谷 (2010) 438p-439p〕

すなわち、自らの「労働力」を商品化することで、交換様式A(互酬)や交換様式B(略奪と再配分)による拘束から解放され自由を得たが、その一方で労働力商品の所有者として新たに拘束もされている「労働者」が、労働の賃金を通じて得た「消費者」の立場から「資本」がもたらす課題を是正していくというモデルである。
たとえば「消費者」が、仮に先ほどのカントの「目的の国」のような倫理観を持つことができるならば、国家内における経済的格差およびそれがもたらす諸問題を解決するために、ロールズのように「再分配(再配分)」に頼らなくても、「商品交換」において解決できる可能性が出てくるであろう。
さらに、仮に「消費者」として自らの倫理観に合致した選択肢がなかったとするならば、流通過程において「消費者」自身が新たな選択肢をつくることも考えられる。

「労働者階級が自由な主体として資本に対抗して活動できる場はやはり流通過程にある。それによって、資本が利潤追求のために犯すさまざまな行き過ぎを普遍的な観点から批判し是正することができる。のみならず、それによって、非資本性的な経済を自ら創り出すことができる。具体的にいえば、消費者=生産者協同組合や地域通貨・信用システムなどの形成である。」〔柄谷 (2010) 440p〕

それでは、国家間の経済的格差およびそれがもたらす諸問題を解決するためにはどのようなアプローチがありうるのか。柄谷は「世界共和国」を提唱する。

「目的の国」

「私の考えでは...宗教を批判しつつ、なお且つ宗教の倫理的核心すなわち交換様式Dを救出する課題を追求した思想家がいる。カントである。彼は、『他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え』という格率を普遍的な道徳法則であると考えた。それが実現された状態が『目的の国』である。...
他者を『目的として扱う』とは、他者を自由な存在として扱うということであり、それは他者の尊厳、すなわち、代替しえない単独性を認めることである。自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。それこそ交換様式Dである。」〔柄谷 (2010) 345p〕

この「目的の国」の考え方に従うと、たとえば、先に述べた「資本」における功利主義的なメカニズムに優先権を与えることで、国家内あるいは国家間の経済的格差を増加させ、経済的な弱者が「行き過ぎた『労働力』の商品化」(例: 命にかかわるリスクが高い仕事への従事)を選ばざるを得ない状況に追い込むという問題に対して、明快に「それは普遍的な道徳法則に反している」と判断されることになる。
その一方で、柄谷は、「国家」「資本」の弊害を解消しているモデルとしてしばしば挙げられるロールズの「福祉国家主義」に一定の評価を与えながらも、このカントの「目的の国」とは似て非なるものとして批判する。

福祉国家主義は、先進資本主義国で、ソ連社会主義に対抗するために”消極的”に採用されてきた。その中で、それを積極的に根拠づけようとした理論家として注目に値するのは、ジョン・ロールズである。それは、彼が、経済的な「格差」に反対して富の再分配を、アプリオリに道徳的な『正義』という観点から基礎づけようとしたからである。...
ロールズは、このように『正義』から始める方法をカント的であると考えた。ある意味では、その通りである。しかし、実際にはまるで違っている。カントが考える正義が『交換的正義』であるのに対して、ロールズがいう正義は『分配的正義』である。それは、資本主義的経済がもたらす格差を、国家による再配分によって解消するというものである。それは不平等を生み出すメカニズムには手を出さないで、その結果を国家によって是正しようというものだ。」〔柄谷 (2010) 398p〕

となると、「福祉国家主義」に替わるアプローチとしてどのようなものがあるだろうか。その件に関する柄谷の記述は、それまでの緻密な論理的な文体から、いささか演説的な文体に変化していくのだが...まず国家内における問題解決のアプローチとして、柄谷は「消費者としての選択」を提唱する。